亀山の能褒野神社や忍山神社にて、古代の英雄・日本武尊と、妃・弟橘媛の物語を巡る。

掲載日:2026.02.26

『日本書紀』や『古事記』に登場する日本武尊(やまとたけるのみこと)と、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)。亀山には、日本武尊の墓とされる地や、弟橘媛にゆかりある神社など、二人の物語にまつわる場所がいくつもあります。

亀山に息づく日本武尊・弟橘媛の物語

 

ヤマトタケル オトタチバナヒメ

亀山市駅前広場に立つ日本武尊・弟橘媛銅像

 

今回は、『日本書紀』『古事記』に登場する古代の英雄・日本武尊(やまとたけるのみこと)、その妃である弟橘媛(おとたちばなひめ)と、亀山との関わりについてご紹介していきます。

 

※日本書紀と古事記とでは、名前や地名に使われる漢字が異なります。今回の記事では主に日本書記での表記を使用いたします。

 

 日本武尊・弟橘媛の物語 

数々の戦果や、何度も迫る危機を自身の機転で乗り越えた話など、古代の英雄・日本武尊の様々な伝説は、今なお語り継がれています。

第12代景行天皇の息子である日本武尊は、父の命により、九州の豪族である熊襲(くまそ)を討ち、その後は東国へ向かい蝦夷(えみし)の平定につとめます。

日本武尊について、西へ東へと戦いに向かう武人としての伝説とともに『日本書紀』『古事記』にて記されているのが、愛する妃・弟橘媛との物語です。

日本武尊が東国へと向かう途中、走水(はしりみず ※現在の東京湾の入口あたりとされる)でのこと。海を渡っていたさなか、海神の怒りによって海が荒れ、日本武尊は危機に瀕します。そこで、弟橘媛は海神の怒りを鎮めるために、自らの命をかけ入水し、日本武尊を助けたのでした。

日本武尊は蝦夷を平定し、故郷である大和へと歩みを進めていきます。その道中、伊吹山の荒ぶる神を倒そうと向かったところ、山の神の怒りにふれて重い病を患い、能褒野(のぼの ※現在の亀山とされる)で力尽き亡くなってしまいます。

 

亀山には日本武尊の墓とされる能褒野王塚古墳があり、そばには、日本武尊を祀る能褒野神社があります。

 

また『日本書紀』にて、弟橘媛は忍山宿祢(おしやまのすくね)の娘と記されており、忍山宿祢が神官を務めた神社は、亀山にある忍山神社と考えられています

 

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日本武尊と弟橘媛ゆかりの地・亀山では、二人の物語が今も語り継がれています。

 

2023年1月には、亀山市駅前広場のリニューアルに合わせて、日本武尊と弟橘媛をイメージした銅像が建立されました。

 

銅像の作者は、亀山出身で文化勲章を受章した経歴もある彫刻家・中村晋也氏。銅像台座には、亀山在住の書家・安藤清舟氏の揮毫(きごう)による「日本武尊 弟橘媛 愛うるはし」の文字が刻まれています。

 

亀山に息づく日本武尊・弟橘媛の物語を訪ねる入口として、ぜひ亀山市駅前広場に足を運んでみてください。

 

名称 亀山市駅前広場
住所 〒519-0155 三重県亀山市御幸町

 

日本武尊の終焉の地「能褒野神社(のぼのじんじゃ)」 

 

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能褒野神社 拝殿

 

続いてご紹介するのは、亀山市田村町にある、日本武尊を主祭神として祀る能褒野神社です。

 

明治12年(1879年)に内務省にて、能褒野王塚古墳が「能褒野墓」(日本武尊の墓)であると定められました。このことをきっかけに、日本武尊の遺徳を偲ぶため、古墳のすぐそばに能褒野神社が創建されました。

 

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能褒野神社の拝殿内には、地域の方が寄贈した、日本武尊の「熊襲伝説」を表した絵が飾られていました。

 

熊襲は、大和朝廷に抵抗していた九州の一族。日本武尊は、父・景行天皇の命を受けて熊襲族の征伐に向かいます。日本武尊は若い娘に変装して熊襲族の宴に紛れ込み、油断していた熊襲族の討伐に見事成功。 機知に富んだ日本武尊の行動が物語に記されています。

 

また、能褒野神社の拝殿に飾られた棟札には、皇族の名が記されていました(写真右側)。

 

この「能褒野神社」という名は、明治16年(1883年)、当時の伊勢神宮祭主であった久邇宮朝彦(くにのみやあさひこ)親王殿下によって選定されたものだそう。建立にあたっては、皇族から金幣を賜った記録があり、棟札はその時に記されたものだそうです。創建時の貴重な記録を拝見することができました。

 

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能褒野王塚古墳

 

西へ東へと遠征して戦果を上げた後に故郷の大和を目指すも、最後は能褒野の地で力尽きてしまった日本武尊。息子の死を耳にした父・景行天皇は、能褒野に墓を造らせました。墓へ亡きがらを納めると、日本武尊は白鳥の姿になって、大和へと飛び立ったという「白鳥伝説」も有名なお話です。

 

日本武尊の墓とされる能褒野王塚古墳は、全長90m、高さ9mの、三重北部最大の前方後円墳です。

 

また、日本武尊が能褒野に着いた際には、「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山籠れる 倭し麗し」と歌を詠んだとされています。

 

意味は「大和は国の中で最も良い処だ。重なり合う青い垣根の如き山々、その中に籠るようにある大和は美しい」というもの。日本武尊の望郷の思いが込められている美しい歌です。

 

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能褒野神社の参道には、木々に囲まれた静かな空間が広がっています。

 

木々の葉擦れの音や、時折聞こえる鳥の鳴き声に耳を澄ませながらゆっくりと歩いていくうちに、だんだんと心が鎮まっていくようでした。

 

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美しく木漏れ日がさす参道を進んだ先に、能褒野神社の拝殿があります。

 

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能褒野神社は、明治41年(1908年)に、この地域にあった40あまりの神社が合祀された歴史があり、合祀された神社には「式内神社」が3社含まれています。

 

式内神社とは、平安時代中期に編纂された、律令の施行細則をまとめた法典である「延喜式」に名が記された神社のこと。

 

能褒野神社に合祀された式内神社は「縣主神社(あがたぬしじんじゃ)」「那久志里神社(なくしり / なぐしりじんじゃ)」「志婆加支神社(しばかし / しばかきじんじゃ)」の3社です。

 

この3社を含めた40あまりの神社が合祀され、地域の氏神様を多く祀っていることから、能褒野神社は、地元の方がよくお参りに訪れる場所でもある、と宮司からお話を伺いました。日本武尊の古墳のそばにある貴重な神社であるとともに、地域の方々にとって大切にされている神社でもあるのですね。

 

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能褒野神社 本殿 ※通常は立ち入ることができません

 

こちらの本殿は、能褒野神社の創建にあたって、伊勢神宮 外宮から譲り受けたものだそうです。

 

伊勢神宮については、第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀るふさわしい場所を探す旅をして、現在の伊勢神宮を創建したといわれています。

 

倭姫命の甥にあたるのが、日本武尊となります。
倭姫命と日本武尊をめぐっては、日本武尊が東国へと向かう際に、伊勢神宮へと立ち寄るのですが、その際に叔母の倭姫命から「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を授けられた物語がよく知られています。

 

日本武尊にまつわるお話をもう一つご紹介します。『古事記』では、日本武尊が、蝦夷平定の後、病に侵されながら現在の四日市のあたりまでたどり着いた際に、「三重のまがり(自分の足は幾重にも折れ曲がったように、ひどく疲れてしまった)」と言ったことから、この地を三重と呼ぶようになったと記されています。

 

日本武尊については、全国のゆかりある地に残された伝説や歌、言葉などが数々あります。能褒野王塚古墳とともにある能褒野神社も、日本武尊にゆかりある貴重な場所の一つ。能褒野神社の参拝とともに、この地に残された日本武尊の物語に思いを馳せてみてください。

 

名称 能褒野神社
住所 〒519-0213 三重県亀山市田村町1409

 

日本武尊を支えた妃ゆかりの地「忍山神社(おしやまじんじゃ)」

 

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能褒野神社から車で15分ほどの距離にある、忍山神社。崇神天皇7年(紀元前91年)創建、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を祀る、最古の神社です。

 

倭姫命が天照大神を祀るふさわしい場所を探すため各地を巡っている際に、忍山神社に立ち寄り、半年間滞在したとされており、「元伊勢」の一つと呼ばれています。そしてこのことから、忍山神社には天照大神が祀られているそうです。

 

また、弟橘媛は忍山宿祢(おしやまのすくね)の娘と記されており、忍山神社は忍山宿祢が神官を務めた神社とされています。

 

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拝殿内には地元の方から寄贈された、忍山神社にまつわる物語を描いた絵が飾られていました。 こちらの絵に基づき、それぞれの物語をご紹介していきます。

 

右側の絵は、天孫降臨の場面。
天照大神の命を受けた孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)一行が高天原(たかまがはら)から降臨する際、猿田彦大神と出会います。一行の一人であった天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、瓊瓊杵尊に言われ、猿田彦大神に名を尋ねます。猿田彦大神は名乗り、「先導役をしたい」と申し出て、瓊瓊杵尊を地上へと導きます。
そうした物語から、猿田彦大神が「導きの神」と呼ばれていることや、この後に、猿田彦大神と天鈿女命は結婚するお話はよく知られているところです。

 

中央の絵は、倭姫命が、天照大神を祀るためにふさわしい場所を探す旅をして、伊勢神宮を創建したことを表す絵のようです。
この旅の道中に、倭姫命が忍山神社に立ち寄り、半年間滞在したと言い伝えられています。

 

左側の絵は、弟橘媛が走水にて入水する場面です。
日本武尊が東国へと向かう際に忍山神社へと立ち寄り、神主の娘・弟橘媛を妃としました。その後、一行は走水で大嵐に遭います。海神の怒りを鎮めるため、弟橘媛は自ら荒れ狂う海に入水しました。妃の犠牲によって海は鎮まり、日本武尊は東国への遠征を続けることができたとされています。

 

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忍山神社では、祭神として、弟橘媛の父である忍山宿祢も祀られています。

 

忍山宿祢の祭神は、もともと忍山神社の近くに位置していたとされる穂積社との合祀により、忍山神社にて祀られるようになったそうです。

 

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忍山神社は、平安時代中期編纂の『延喜式』に名が記された神社「式内神社」です。

 

もともと忍山神社は、猿田彦大神を祀る「忍山神社」(別名 白髭神社)、と天照大神を祀る「忍山神宮」に分かれていました。亀山市歴史博物館発行の亀山市史によると、猿田彦大神を祀る忍山神社が式内神社であったのではないかとされています。

 

そして、天照大神を祀る忍山神宮は、現在の忍山神社の北東に位置する愛宕山にあったと考えられています。また江戸時代には戦乱の影響を受け、忍山神宮のご神体は、白木山、布気林へ転々とした後に、忍山神社の地へ落ち着いたと考えられています。

 

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拝殿にて参拝した後、本殿を外から拝観しました。

 

本殿は江戸時代のものとされているそうです。様々な時代を経て大切に守られてきたお社の姿には、重厚な風格がありました。

 

2025年11月には日本武尊・弟橘媛を題材にしたバレエが初めて奉納公演されるなど、日本武尊・弟橘媛のゆかりの場所としての新たな取り組みも行われています。

 

また忍山神社には、明治頃から毎年秋に実施されている「傘鉾巡行」(亀山市無形民俗文化財に指定)という、地域の方が参加する神事があり、長きにわたり地域に大切にされてきた伝統文化もあります。

 

悠久の時を経て語り継がれてきた物語や、地域の伝統を感じに、忍山神社をぜひ訪れてみてください。

 

名称 忍山神社
住所 〒519-0165 三重県亀山市野村4丁目4−65
電話番号 0595-83-3756
公式URL https://oshiyamazinja2.jimdofree.com/

 

「アートが生まれる街、亀山」

 

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今回は亀山に息づく日本武尊・弟橘媛の物語についてご紹介しました。

 

亀山は、古代の物語にゆかりある地であるほか、関宿などの歴史的・文化的な地や、雄大な自然を有する地としての側面もあります。そんな魅力溢れる亀山について、「道」「灯」「学」「歩」の4つのテーマに基づき、大切に守られてきた伝統文化や食、新たな体験などを、“アート”をコンセプトに紹介するサイトを公開中です。

 

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提供:亀山市

 モデルプロフィール 

加藤ゆうみ

【加藤ゆうみ】

三重県在住のモデル・タレント。日本とマレーシアを中心に活動中。2018年ミス・ユニバースジャパン三重県代表として出場し、日本代表として世界大会に出場。2022年ミス・インターナショナル日本大会では準グランプリ(第3位)と、特別賞のパーフェクトボディ賞を受賞。

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MSLP by new end. Inc.

映像クリエイター、フォトグラファー、デザイナー、ライターなどが所属する三重県のクリエイターチーム。

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