極上の休息を。三重県

北勢

歴史刻まれた旧東海道
いま訪ね知る喜び

場所が、人が、語り紡ぐ。

江戸時代、徳川家康により整備された東海道。

東海道には五十三の宿場が設けられ、「関宿」は今なおその面影を残している。三重県における東海道始まりの地「七里の渡跡」や、明治・大正期の栄華を物語る「六華苑」も見逃せない。

三重県北勢地域にある史跡や重要文化財、代々その地で歴史を紡いできた人々を訪ね。歴史探訪“旧東海道旅”へと出かけてみた。

目次

「七里の渡し」

1.三重“旧東海道”始まりの地
「七里の渡跡」

東海道は古代・中世を通じて東西交通の重要な幹線道路であった。慶長6年(1601年)になると、徳川家康は本城のある江戸と、朝廷や豊臣氏の居城がある京都・大坂を結ぶ東海道宿駅制度を設置。これにより東海道には五十三の宿場が設けられた。

熱田の宮宿から桑名宿の間は東海道を船で渡る唯一の海路であり、宮宿の渡しからは「七里」の距離を船に乗って桑名宿の渡しについたことから「七里の渡し」という名がついた。現在は史跡「七里の渡跡」として残されている。

七里の渡跡を訪れると目を引くのは大きな鳥居だ。
これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称されており、天明年間(1781~1789年)に設置されて以来、伊勢神宮の遷宮がある20年ごとに内宮宇治橋の外側にある鳥居が運ばれ、建て替えられている。

「六華苑」外観

2.明治・大正期を物語る建造物
「六華苑」

七里の渡跡から150mほどの距離にある「六華苑」(旧諸戸清六邸)。
明治44年(1911年)に着工、大正2年(1913年)に竣工され、現在は拝観可能な重要文化財として大切に保存されている。

明治・大正期というと、服装や生活様式などの西洋化が一般大衆にも浸透していった時代。当時は洋館を備えた邸宅を建てることが、実業家たちにとってのステータスであった。この六華苑も同様の背景を有しており、山林王として知られた実業家、二代諸戸清六の新居として建てられた。

日本近代建築の歴史的足跡

六華苑の洋館は、日本に初めて本格的なヨーロッパ建築をもたらし「日本近代建築の父」と称されたイギリス人建築家のジョサイア・コンドルが設計を担当した。コンドルは鹿鳴館やニコライ堂などの設計を手掛けたことで有名であるが、日本全国で70棟以上設計したうち、現存している建造物は8棟ほどしかない。その中で、六華苑は関東地区以外に唯一残された住宅作品として貴重なものとなっている。

また、明治・大正期に洋館と隣接して和館を築くことが通例としてあったものの、六華苑ほどの大きな和館が、洋館と「壁一枚」の構造で連なるように建てられることは大変珍しいことだったそう。六華苑では屋内外から、和・洋の文化それぞれが物理的に接続している造りを目で見て楽しめる。時代と共に西洋化の道へと歩んでいった、かつての日本の様相を間近に感じることが出来るのは大変興味深い。

苑内の洋館及び和館が平成9年に国の重要文化財に指定され、他6棟は三重県の有形文化財に指定された。

かつての街・風景をも
想像させてくれる重要文化財

六華苑の建物群は、建設当初の立地から動かされることなく、桑名の町中に在るまま保存されているのが大変貴重な点だ。

六華苑建設当時の町並みというと、そばを流れる揖斐川は船の往来が盛んで、堤防沿いには1万本ほどの桜並木があるなど、情緒あふれる景色が広がっていた。

諸戸清六はその町並みを大変気に入っていたようだ。洋館の塔はコンドルが設計した当初「3層」だったところを、清六が「揖斐川を見渡せるように」と依頼し「4層」へと急遽変更されたそう。
六華苑の周囲は、七里の渡跡や桑名城跡などの史跡があるほか、現在も風情ある町並みが広がっている。六華苑を訪れた際は、そのロケーションも共に楽しみたいところだ。

3.日永の追分で旅人が食した
「なが餅」

桑名から旧東海道を南へ進んでいくと、東海道五十三次・四十三番目の四日市宿にたどり着く。
四日市にある日永は「日永の追分」と呼ばれ、東海道と伊勢街道が交差する地点だった。
かつて日永の追分は、お伊勢参りをする旅人などで賑わったそう。

現在、伝統工芸品となっている手製の竹うちわ「日永うちわ」は、江戸時代、街道を行き交う人々やお伊勢参りをする人々が、お土産として多く手にしたことから発展していったとされている。
また日永も含め、旧東海道沿いは長旅に向けて力を蓄えられるよう餅を販売する店が数々誕生したことから、旧東海道は「餅街道」とも呼ばれている。

日永うちわや伝統ある餅菓子など、現在も楽しめるものを実際に手にしてみると、かつての街道の賑わいを、より鮮やかに想像できそうだ。

笹井屋の初代彦兵衛氏が発案した「なが餅」

戦国時代から愛されてきた
歴史的銘菓

日永にある「なが餅」は、天文19年(1550年)創業の笹井屋が作る餅菓子。
日永の地名にちなんで「なが餅」とつけられた名には、後に伊勢津藩三十六万石の大名となる藤堂高虎が足軽の頃なが餅を食し、その味に感動するとともに「武運のながき餅を食うは幸先よし」とその名も絶賛したという逸話がある。

なが餅は、平たく長くのばされた見た目が特徴的。北海道産の小豆を独自の製法で炊き、厳選された国産もち米を丹念につきあげ餡をくるみ、平たく伸ばしたうえで両面を香ばしく焼き上げる。
口にしてみると、餡はさっぱりとした甘みでくどくなく、餅の焼き目がほどよく香ばしい。平たくのばされた形状は口当たりも軽やか。

素朴で食べ飽きない味わいが、旅の疲れを優しく癒してくれるのだろう。街道を行き交う旅人たちが なが餅を食し、ほっと一息つく様子が目に浮かぶようだ。

「東海道関宿」の街道

4.江戸時代の景色が残る
「東海道関宿」

続いて、東海道 四十七番目の「関宿」へ足を運ぶ。
関宿は今なお、かつての町並みを色濃く残しており、江戸から明治期にかけての町屋が街道沿いに約1.8km、200軒ほど連なる様子は圧巻だ。
東海道五十三次では唯一、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

関宿は交通の拠点として繁栄した歴史がある。
関宿の西の追分は、奈良へと続く大和街道に分岐し、東の追分は伊勢別街道への分岐がある。そのため、江戸時代は、参勤交代を行う諸大名の一行や、お伊勢参りをする旅人などで賑わったそう。

関宿と、江戸・京都を菓子で繋いだ
「関の戸」のおもてなし

関宿には、1642年創業、徳川三代将軍・家光の時代より続く老舗和菓子屋「深川屋」がある。
初代の頃より作り続けられているのが餅菓子「関の戸」だ。
赤小豆のこし餡をぎゅうひ餅で包み、阿波特産の和三盆をまぶした一口大の餅菓子は上品な味わいが特徴で、江戸当時、諸大名達の間で人気を博した。人気の噂は京都の朝廷まで伝わり、御室御所(仁和寺)の御用達菓子ともなったそう。

深川屋14代目当主の服部吉右衛門亜樹さんに話を伺った。
「関宿は峠を越えてすぐの宿場町だったので、休息をとる諸大名や旅人たちが多くいました。庶民が食べる3色団子やぼたもちでは満足しない諸大名たちをもてなすために、関の戸では、上等の白砂糖である唐三盆や和三盆を使用することにしたようで、高級な素材を使ったこともあり、諸大名たちはこぞって買ったそうです」

味わいも見た目も上品な銘菓「関の戸」

関の戸は現在も、江戸時代と変わらぬ配合や製法を継承し、守り続けている。
「かなり手間のかかる製法なのですが、そこには『もてなし』の意図があったことがわかりました」と服部さん。
というのも、近年、関の戸を食品分析会社にて調査したところ、常温保存でも3年半はもつということがわかったそうだ。(※厚生労働省が定める賞味期限は15日間となる)

服部さん「餡子の入ったお菓子は日持ちしないというのが一般的ですが、関の戸は製法に工夫があるため、長く持ちます。そのため、江戸や京都まで徒歩の旅でも持ち帰ることが出来たんです」
餡は自家製で、水を一滴も使わず時間をかけて丁寧に炊き上げ、気候にあわせて2日から1週間寝かせる。そうすることで最終的に餡子の糖度が80度以上となり、日持ちが長くなるそうだ。

「出来る限り遠い所の方にも召し上がっていただきたいという、初代の『もてなし』の思いがあったのではないでしょうか。初代から代々続く思いを受け継ぎ、歴史ある和菓子屋として江戸の文化継承の意思も込めて、今なお古くからの製法を守り続けています」

(写真左)14代目当主服部健さん。
関の戸の製法が記された書や、道具類など、江戸以降のものが今も大切に保管されている。

街道沿いの「桶重」にて
匠の技を間近に見る

関宿を歩いていると、街道に面したガラス戸の奥、真剣なまなざしで作業をしている職人の様子が目にとまる。
明治15年(1882年)創業の「桶重」は創業時から代々受け継がれてきた技法で木桶を作り続ける伝統ある桶屋だ。

関は宿場町として足洗い用など桶の需要が多くあり、また木材の入手が容易であったことから、桶づくりが盛んであったと言われている。
今となっては桶重が唯一関町に残る桶屋であり、桶は「関の桶」として県の伝統工芸品にも指定され、貴重なものとなっている。

桶重四代目 服部健さん

関宿街道を通る人々は、服部健さんの丁寧な手仕事を前に、必ずと言っていいほど足を止める。

「昔からのものをそのまま伝えるのが、伝統工芸」と話す服部健さん。桶の制作工程を伺うと、「そのまま」という言葉の真正性が見えた。

まず、注文は対面または電話のみで受け付けている。それは、直接注文主とやりとりすることで、桶の用途をくまなく拾い上げ、使用する人にぴったりとくる桶を作るためだ。 タガや板を固定するために用いる竹は都度、細かく裂き、材料へと仕立て上げていく。木の板も一枚一枚切り出し、カンナで削り、絶妙な角度をつけて水漏れの無いように組み合わせていく。そうして作られた、ぴったりとくる桶は「50年はもつ」という。

代々受け継がれてきた技法によって生み出さされる桶はとても美しく、機能にも優れており、まさに「伝統工芸品」然としていた。

創業時から受け継がれてきた道具のうちいくつかは、今も現役で活躍中。
古くから大切に使われている道具や、歴史ある桶作りの様子は、かつての街道の賑わいを想像する糸口となりそうだ。

「いつの時代であっても良い桶を手にしてほしい」と服部健さんがまっすぐ語る様子から、桶重の中で紡がれてきた桶職人としての歴史にも触れることが出来た。

江戸時代の大旅籠「山田屋」は、
食事処「会津屋」へ

「山田屋」は江戸後期に建てられた旅籠で、「鶴屋」「玉屋」と並び、関宿を代表する大旅籠のひとつであった。
山田屋は、江戸時代、父の仇討ちを果たした物語として語り継がれている「関の小萬」が暮らした名所としても有名である。

もとは関の小萬の母が仇討ちを心に決め、身重ながら久留米より亀山まで向かうのだが、亀山目前の関宿の山田屋にて、娘・関の小萬を出産した後亡くなってしまう。関の小萬は山田屋の主人に育てられ、仇討ちを果たすために十二歳より剣術を習い、十八歳の時に仇討ちの本懐を果たす。
仇討ちを見事果たした後は、うら若き女性が仇討ちを果たしたという珍しさから話題となり、小萬がお礼奉公していた山田屋が大いに繁盛したという言い伝えもあるそうだ。

かつての大旅籠 山田屋は現在、竈でモチモチの食感に蒸しあげられた山菜おこわや、出汁にこだわった蕎麦などがいただける食事処「会津屋」となった。
実はここ山田屋の建物は、江戸から令和まで、様々に形態を変えながら引き継がれてきた系譜がある。

会津屋の店主・山口ゆかりさんにお話を伺ったところ「この建物は、天保年間(1830~1848年)以降様々な人の手に渡り、風情ある建物の造りは守りながら、生まれ変わりを繰り返してきました。ある時は茶屋になり、床屋になった時代もあるそうです。」
形を変えながらも、こうして歴史と風情ある建物が残されてきたのは、引き継いだ人々の大旅籠 山田屋に対する敬意があったからではないだろうか。

会津屋の目の前には、天平13(741)年に行基菩薩が流行り病から人々を救う為、地蔵菩薩を安置したと伝えられている地蔵院がある。「せきの地蔵さんに振袖きせて奈良の大仏むこに取る」という言葉や、日本最古の地蔵菩薩があることで名高い。
「江戸時代の浮世絵で、地蔵院を訪れ、山田屋に宿泊する多くの人々が描かれたものが残されています」と山口さん。
会津屋の店内から街道を望む景観は、江戸も今も変わらない風情が感じられる。歴史情緒ある景観や、会津屋のこだわりの定食、会津屋にて保管されている歴史ある浮世絵や錦絵などを目当てに今でも多くの旅人が訪れているそうだ。

旧街道を通り楽しむ
歴史探訪の旅

旧東海道沿いに桑名宿から四日市宿を通り、関宿まで訪ねてみると、古い時代から大切に継承されてきた史跡や建造物、食、文化、技術と出会うことが出来る。それぞれの場所、もの、人々は、今なお訪れる人を惹き付ける魅力がある。実際に足を運んだ際は、昔に思いを馳せる楽しみに加え、古くから今に至るまで着目され、愛され続ける理由を五感で感じてみてほしい。

住所などの情報

【七里の渡跡】
〒511-0011 桑名市船馬町
[TEL]0594-24-1361(桑名市教育委員会文化課)

【六華苑】
〒511-0009 桑名市桑名字鷹場663-5
[TEL]0594-24-4466

【笹井屋】
〒510-0081 三重県四日市市北町5-13
[TEL]059-351-8800

【関宿】
亀山市関町木崎、中町、新所
[TEL]0595-97-8877 (亀山市観光協会)

【深川屋】
〒519-1112 亀山市関町中町387
[TEL]0595-96-0008

【桶重】
〒519-1112 亀山市関町中町474-1
[TEL]0595-96-2808

【会津屋】
〒519-1111 亀山市関町新所1771-1
[TEL]0595-96-0995

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